夜の柩

語るに落ちる

翅の一枚にもきっと虫生がある

 

虫は全般苦手だ。特に足の速いやつと飛んでくるやつ。足の速い方は目を離した隙に跡形もなく姿を消しているし、飛んでくる方はなぜか顔面に向かって突っ込んでくる。前者はいつどこで再会するかわからない恐怖に怯えることになり、後者は威嚇という名の喧嘩を売られている。こちらはその喧嘩を買う気がないどころか熨斗をつけて丁重にお返ししたいくらいだというのに、構いもせずに容赦無く立ち向かってくる勇ましさ、もとい無謀さには無理矢理新聞紙で応戦する他無い。だってここで見失ったらまた不意打ちで喧嘩を売られるかもしれないし。通り魔となんら変わらないではないか。

春夏秋とそれぞれで活動する虫がいて、そのどれもが煩わしい。地球的に見れば生態系に大きな影響を及ぼしていたり、なんだったら最近では虫食なんていうものまで流行り出しているから世も末。いや、意味があるからこの世に存在していることくらい理解している。ただ、もう少しひっそりしていてほしい。彼らもこちらに対してもっとひっそりしてほしいと思っているかもしれないけど、明らかに力の差ではこちらの方が強いので、姿を見せただけでご臨終なんて理不尽な終わりを迎えなくて済むはずだ。何に対しても穏便に終わらせたい気持ちをどうか尊重してほしい、などと言ったところで虫たちにとってはなんのことやら。音がするところや薄暗い場所、餌のあるところを探したらそこが人間の住まいだったというだけかもしれない。どうぞお帰り下さい、玄関はあちらです。なんだったら窓でもいいです、あちらです。

ここまで虫を嫌っている話を書いておきながら、蝶の翅やトンボの翅は割と好ましいと思っていたりする。あくまでもそれだけを見れば。蝶の翅は鱗粉を纏いつつもしっとりしているし、花の蜜を吸うためにとまっている時なんて優雅な動きをする。毒々しい色だったり、禍々しい顔のような模様だったり、かと思えば可憐なお嬢さんのような控えめな小ささだったり、どれとして同じものがない。トンボの翅は透明で、バタバタと忙しなく動く。けどよく見るとその透明でいかにも脆そうな翅は触れると結構強く押し返してきたりする。葉脈のようにも、張り巡らされた血管のようにも見えるし、光にあたると虹色に見えることもあって、それはなかなかどうして悪くないと思う。

この時期になるとトンボが飛び始める。一匹で飛んでいたり、番と飛んでいたり。それは夕方になると顕著で、昔聴いた童謡を思い出したりする。童謡ってもの悲しさや不気味さがあるけど、赤とんぼの歌には知らないはずの遥か昔の記憶を呼び起こされるような郷愁も感じてなんとなく秋の風が身に沁みてしまう。寒さが増していく季節はしんみりする。

そんなことを考えていた帰り際の歩道でトンボがとまっていた。正しくいうなら落ちていた。赤くて細い体をコンクリートにくっつけて、透明な翅は風に煽られるままはためいている。翅の下側がぼろぼろに破れていたから、きっとうまく飛べなくなって落ちてしまったのだろう。そのまま力尽きていた。せめて路肩の花壇にでも転がってしまえば歩行者に踏まれることもないかもしれない。体の立体を保ったままそこにいるので、まだ落ちてからそんなに時間は経っていないかもしれなかった。なんとなく気休め程度に小枝の先でつついてはしっこへと転がす。どんな死に方も自然の摂理といえど、この透明な翅が人為的な理由によってさらにぼろぼろに千切れてしまうのは忍びない。ただそれだけの理由。