夜の柩

語るに落ちる

そこにあって、そこになくて、多分どれも嘘

 

目に見えるものしか信じない。目に見えるものすら信じない。自分の目さえも信じない。人間の感覚は怪しいものなので、林檎がそこにあればそれは”林檎”でそこに”ある”と思い込む。

本当は林檎じゃないかもしれないのに。本当はそこにないかもしれないのに。もっというなら、林檎も自分も存在しないかもしれないのに。当たり前ではないかもしれないことを、当たり前だと思うようにできているのはどうしてだろう。それが常識だからと刷り込まれているから? 多分空が青いのはなぜだろうと疑問に思わないのと変わらない。

この世のすべては自分が見ている夢か何かで、あるいは自分すらも誰かの夢の一部か創作物で、ある日突然目が覚めたら今まで見ていたものや体験してきたと思っていたこと、他人との会話、築いてきたものの全てが夢で、何もないどこかか深い海の底か、もしくはどこでもない空間に漂っているんじゃないのかと思う時がある。他人のことはどうにか認識できても自分のことを認識するのは難しい。鏡に映るものだって本物ではないし、向こう側にある世界のようで。

これが何ていう感覚なのかさっぱりわからない。わかったところでどうにもならないからわからなくても構わないけど、もし仮にこの妄執めいたものが当たっていたとして、正しくそうだと自覚する時はきっと自分が消失する瞬間か世界が終わる時か、何かしらの終わる理由によると思う。

自分の存在が自分の中で希薄だと感じる時にこんなことをぼんやり考えている。自分が誰かの創作物なら失敗作といわないまでもどこか調子が悪い時に作られたのかもしれない。何も答えが出ないまま今日も疑っている。