夜の柩

語るに落ちる

明日、世界が滅ぶとしても

 

朝、すごく外が明るくてとうとうこの世界は終わるのかと思った。

窓辺で煙草を喫いながら、なんとなく明日世界が終わるなら今日何をして過ごすだろうと考える。いつも通りに変わらない一日を過ごすかもしれない、誰かに会いに行くかもしれない、大切な人と過ごすかもしれない、食べたいものを食べて飲みたいものを飲むかもしれない、行きたいところに行ったり、やりたかったことややれなかったことをやるかもしれない。どれも有り得るし、どれもしないかもしれない。自分がその時に何をするかと考えてみても、出てきたものはどれもあまりしっくりこない。迫り来る終わりへの危機感が足りていないせいで。

ルターかルソーか忘れたけど「たとえ明日世界が滅ぶとしても、私はりんごの木を植えるだろう」と言っていた。本来の意味は多分宗教が絡むから割愛するとして、単純に言葉通りに考えるなら「明日世界が滅んですべてがなくなったとしても、自分が植え続けてきた苗木がどれか一本でも生き残るかもしれないし、残ったそれからまた根が広がっていくかもしれない」という感じの、諦めないこととか継続することに意味があるとか、そういうことだろうと思う。

明日世界が滅ぶなら今日この日に、一時の刹那的なことをするのもいいけど、明日世界が滅ぶとしても今まで続けてきたことを変わりなく済ませた方が余程清廉な気持ちで終われるのかもしれない。これまでのことを振り返ったり、終わってしまうこの先に思いを馳せたり、懺悔も後悔も懐かしさも全て思い返して、粛々と淡々とこなしてその時を待つ。

終わるとわかっていながら生命の息吹であるりんごの木を植えるのは、なんだか祈りのようにも見えるし、その先への一縷の希望や期待を見出しているからできることで。展望も何もなければ到底むずかしい。まず真っ先に暴動が起きるか、どこかの偉い人ならスペースシャトルにでも乗ってとっとと世界から安全圏へ一抜けするだろう。これは一個人の偏見。

こういう言葉を見ると、一日をただ生きて終わるよりどうやって過ごすかを考えるには良い言葉なんだろうな、と思う。明日死んでも大丈夫なように生きていた自分を思い出す。根は変わらないはずだけど、今はただ日々に追われるだけになってしまっている。あの頃の方が多分、色々なものに対して達観していて覚悟もしていた。それから見れば随分とたくさんのことを知ってしまったし、歳も取って幾分か臆病にもなった。

明日、世界が滅ぶなら。何をすれば満足して終われるだろう。