夜の柩

語るに落ちる

140字の図書館について

 

SNSはツイッターを愛用しているけど、アップデートするたびに使いにくくなる。一番最初の、リリースされたばかりのちょっと不便さを感じるほどにシンプルな、最低限の機能しかない時が一番好きだった。インスタグラムもそうで、写真の加工も最低限しかないけど味のある機能が揃っている頃が一番使いやすかった。もっと遡るならmixiも。招待制の時が本当に安全圏という感じがしたし、知る人ぞ知るひっそり感がよかった。

どんどんごちゃごちゃしていく機能を見ると、ユーザーが増えるにつれて各々の需要云々や使いやすくするための機能拡張を考える必要が出てくるのはわかる。けど、どれも似たり寄ったりになるなら面白さもないし、これのここが好きで使っていたっていう良さも潰れるし、そうなると使えるならどれでもいいって思うようになって、途端に煩わしい部分ばかりが目に付くようになる。あんなにも好きだったのに、という気持ち。

ツイッターは140字の図書館でもあり、色々な本を覗き見して選んで自分だけの本棚を作っていく感覚に近い。ふぁぼ──いいねよりも未だにふぁぼの方が馴染む──は自分用の栞で、読みたい時にそこを開いて確認するもので、よそのタイムラインに垂れ流しになるのは好きじゃないしなんか違う。自分から探して見つけるのが好きなのであって「誰々さんがいいねしました」とかが出てくると押しつけがましく感じてしまう。余計なお世話です、自分で探します。素敵な言葉でも突っ撥ねたくなる。

たまに通行人が通る、あるいは物好きな人が覗いてくる。そんな感じの、ひっそり感が好きだったので、今のような常に誰かが通っていてがやがやしている雰囲気は苦手だ。それでも140字という長さが丁度良いし、そこでだけで繋がっているひとたちの生存確認に便利だし、情報も早く得られるからなんだかんだと目を瞑って使っている。でもこれ以上迷走したらちょっとわからないな。

好きなものがどんどん変わっていく。色だったり、形だったり、在り方だったり、機能だったり色々あるけど。変わらないのは自分だけだと思ったりもする。対象や周りの変化が早くて、受け入れる前にまた変わってしまう。それを楽しみに思えるほど柔軟でいられたらいいけど、少しずつ好きから遠ざかっていくのを感じると悲しくなる。これはこちら側の勝手な都合でしかない。これだって押しつけているのと同義だ。変わらないでいてほしいというのは無理な話。

この先何度も何度も変わっていくとしても、せめてどこかしらに面影が残っていてくれればな、と思う。好きだと思った部分が一個でも残っていてくれれば、それを大事に握りしめていられるし、なんだかんだ言いながらも使い続ける理由になるから。