夜の柩

語るに落ちる

寝たふりと死んだふり

 
『眠り』についてたびたび考えている。

動いて話して目まぐるしく周囲の情報を受け止めて何かを創造することが『生きる』という意味なら、眠ることはその逆で、何よりも死に近い行為なのではないか。これは生産性の有無で見た時の話。それなら夢というものは、願望や潜在意識や記憶の整理ではなく向こう側の世界になるのだろうか。

死ぬことを「長い眠りにつく」と表現することにずっと疑問を抱いていた。眠っているだけならいつかは目覚めるだろうとなんの疑いも持たずに待っていた子どもの頃を思い出す。当たり前だけど眠ってしまった人は永遠に目覚めることはない。けれど子どもには、それが周囲の大人が子どもへ出来る精一杯の気休めだなんて知るはずもない。眠ってしまった人がもう起きないのだと知った時、うすらぼんやりと、理解できたようなできないような、色々なものが混ざった何か言い難い気持ちを処理するのが難しかった。その中の一つを『さみしい』と呼ぶことだけはわかっていたけど。

次にその嘘を告げた人が長い眠りにつく頃には、子どもながらに死というものを少なからず理解している年齢になっていた。周りの大人たちが慰めにそう表現することもあると理解した。ただ、腑には落ちない。だって本来『眠る』は『目覚める』ことが前提のはずだから。

童話の白雪姫は死んだと見せかけて眠っているだけだった。だから結局、そういうことなのだろう。