夜の柩

語るに落ちる

日曜日の夜には決まって

 

日曜日の夜に、母親と部屋の電気を消して日曜洋画劇場を観るのが好きだった。映画の解説者は淀川長治さんで、番組の締め括りは「さよなら、さよなら、さよなら」という台詞だったのをよく覚えている。それで日曜日の夜が終わるのが恒例だった。

母親は生粋の仕事人で、休みの日は日曜日と祝日しかないような人だった。神経質でいつもどこか張り詰めた空気を持っていたけど、休みの日に暗くした部屋で日曜洋画劇場を観ている時だけはリラックスしていた。その頃はまだ洋画の意味すら理解できない子どもだったけど、そばにいたくてこっそりと枕を持って部屋に入り、母親の近くに座った。21時になったら子どもはもう寝る時間だ、とあまり遅く起きていることを良しとしなかったのに、その日のその時間だけは起きていても咎められなかった。

白黒の映像や擦り切れたカラー映像の中で異国の俳優が異国の言葉で演技をしている。ヴィヴィアン・リーの横顔は美しいし、マリリン・モンローはチャーミングで、オードリー・ヘプバーンは可憐だった。人種問題も格差社会も貧困問題も戦争もなんでも詰まっていたけど、その難しさが彼女たちの美をより強調してもいた。焦がれてしまうような恋も、陰惨な裏側の世界も、昨日の敵は今日の友のようなバディも、永遠の友情も、性悪な悪女も、艶めかしい娼婦も、掴み所のない曲者も、演じ切ってしまう彼女彼らの俳優としての胆力の素晴らしさを感じ始めたのはもう少し後になってからで、その時はただただ画面の向こう側にある世界を母親と同じ空間で感じることが重要だった。

思えば子どもの頃から随分と渋いものを好んでいたと思う。普段は一日の大半を祖母といたためか、観ていた番組は「水戸黄門」「暴れん坊将軍」「太陽にほえろ」「はぐれ刑事純情派」「さすらい刑事旅情編」とかだったし、好きな俳優は里見浩太朗だった。そもそもそれ以外知らなかったともいえるけど、例えば幼児向け番組の体操のおにいさんとか歌のおにいさんおねえさんとか、子どもらしく好ましいと思えるものは他にもあってよかったのではないかと思う。

そんな調子だったので、洋画に対してもやっぱりそんな具合だった。母親が昔の映画を好んだのもあるし、日曜洋画劇場での淀川さんの解説が好きだったのもある。むしろ淀川さんの解説を本編に思っていた節も無きにしも非ず。もう少し年齢が高ければ当時の国の背景や使われていた調度品、衣装の芸術性も理解できただろうと思うと惜しい。今観ればまた違う趣きを感じるかもしれないので一本ずつ借りてみるのもいいかもしれない。

映画の良さは現実との乖離だと思う。自分では経験し得ない人生や世界、もしもというたらればをそこで味わえる良さ。それが二時間程度の映像に収まっていること。それは本にもいえることで、一冊の文字の羅列にぎゅっと詰まっている。自分の生きている世界が狭ければ狭いほど、現実と乖離したその世界に強く惹かれるし入り込める。

現実の世界がしんどい時、逃避をよくする。それは日曜洋画劇場を母親と観ていた子どもの頃だったり、まったく別の世界だったり、直近で触れた本の内容だったりと様々で、数分から数時間とかけて散々想像を巡らせた後、決まって「さよなら、さよなら、さよなら」という台詞で締め括るようにしている。