夜の柩

語るに落ちる

とりあえず、積んどく

 

買った本を積んでしまう。本屋や図書館は住みたいくらいに好きで、休日の開店時間から行こうものならほぼ一日そこに入り浸るくらいだ。その中で気になった本を買ったり借りたりするのだけど、自分の手元に来たという安心感が勝るのかなんなのか、すぐに本を開こうという気にならなくなる。さっきまであんなに面白そうな本だな、とわくわくしていたはずなのに。その時の高揚感はすっかりとナリを潜めてしまい、代わりに何を思ってか本を寝かせる行程に入ってしまう。熟成でもする気なのだろうか。寝かせた日数の分より味わい深く美味しくなるのならいい。が、生憎と待ち受けているのは、そのままその本を買ったことを忘れるか、返却期日が目前に迫りましたよというお知らせメールを貰うかなのである。

読みたい本が現在進行形で未完だったり、長く続くシリーズものだと手をつけない。作者、あるいは自分が生きているうちに完結するのかわからないから、手を出したが最後だと思っている。だってちゃんと最終話知りたいし。どんな終わりであれ終わってほしいと思うし。

その点戦中戦後の文豪の本にはなんの躊躇もなく手をつける。作者がもういないから。未完であってもシリーズものであっても"もう更新されることはない"という事実がある。悲しくもあり残念でもあると同時に、その作者の書いたもの全てを読み終えることができる。だって終わりがわかっているから。数的な意味で。

どちらかといえば、本の装丁、文字のフォント、厚み、重み、匂い、経年劣化した紙の色とかに惹かれる部分があるから、リーディング型よりコレクター型のような気がしなくもない。勿論、読むことも好きなのは前提として。

子どもの頃よく入り浸っていた祖父の書斎には、仕事関係の分厚い本の他にも祖父が好んでいた本が混ざって並んでいた。いつだったか、ここにある本は全部読み切ったことがあるのかと聞いたことがある。そうしたら「読めていない本が圧倒的に多い。もう目も悪くなって読めなくなった。」と言われた。そりゃあこれだけあればそうだよな、本の重さで床が傾いているくらいだし。でもやっぱり読めていないのは勿体無い気がしたのも事実で。なんて言葉にするか迷った挙句に、手放す気はないのかという疑問には「読めなくても自分のそばにあるのは縁で、中身はわからなくても宝物だ」と返された。まぁ、そういうものだよね。なんとなくわかる気がする。だってその時に出会って手に取ったのは間違いなく縁で、その後もずっと手元にあるものだから。他の人にとっては価値がなかったり理解できなくても、自分にとって価値があって意味があるならそれでいい訳で。祖父も恐らく、本に囲まれていることが好きだった。

部屋の片隅で積まれた本を見ると、つくづく似てしまったなぁと思う。似てしまった。でも、この目が見えなくなる前に今手元にある本は読み切りたい。とりあえず、今日買った本は積んどく。てっぺんに向かうにつれて左寄りに傾いていることを考慮して、ほんの少しだけ右寄りに置いた。こうして一人暮らしの1LDKのすみっこにピサの斜塔は築かれるのだ。